ナスカの地上絵と、マチュピチユを訪ねて、ペルーに行きました。
アンデス山脈の麓で、しかも、太平洋のすぐ側なのに、リマの町は乾いていました。空港に降り立ったとたん、排気ガスの臭いがしました。「今日は曇っているのですか?」とガイドさんに尋ねると、「晴れです」との答え。空は、少し灰色を混ぜた白です。青味は全くありません。雨は降らないそうです。「海岸砂漠地帯」と呼ばれているそうです。「空が無い」とは、こんな空のことを言うのかなと思いました。
ナスカの地上絵を見るために、10人乗りの軽飛行機で、約1時間半でイカ空港に着きました。機上からの景色は、黒に近い灰色の砂漠だけが、えんえんと続いていました。命あるものが居るという、予感さえ拒否しているような、まさに「不毛の大地」でした。
イカはオアシスの町です。オアシスの泉は、昔絵本で見たアラビアンナイトの挿絵そのままの景色でした。四方をサラサラの砂の丘に囲まれ、そこだけに緑が茂り、泉が湧いていました。釣りをしている人がいました。「魚がいる・・?」引き上げられたボートが舟底を、ようしゃなく降り注ぐ陽光に晒されていました。露天で商われているカラフルな土産物たち。色の失せた景色の中で、ここだけは、スポットライトがあたった舞台のように、華やいでいました。
次に、ミイラ博物館へ。主にプレインカ時代のものが展示してありました。装身具や布は、精巧で緻密でありながらも、手作りの感触が伝わって、リマの黄金博物館で見た、豪華絢爛たる、権力者達の醸し出した傲岸さは微塵も感じられず、また少女のミイラは、アルパカで織られた布に幾重にも守られ、ポッカリとあいた眼窩にさえ、人々の深い祈りを見た気がしました。
イカの飛行場から、こんどは8人乗りの軽飛行機で、ナスカへ。
想像では、平らな地面に様々な巨大な絵を見るはずでした。
現実は、黒に近い灰色の凹凸の激しい砂漠の中で、砂になりきれなかったサンドペーパー状の斜面に刻まれた絵でした。飛行機の上からでは、大きさも、あたりに比較するものが無く、見当が付きませんでした。右や左にローリングしながら、パイロットさんが説明をしてくれるのですが・・・宇宙人とハチ鳥は見ました。それだけ・・・。乗り物酔いで脂汗にまみれた1時間以上のフライトは、永遠とも思える辛抱でした(なさけない・・)。オアシスでマテ・デ・コカとインカコーラを飲み、休憩してから、10人乗りの飛行機でリマに帰りました。今日は大空に酔ってしまったけれども、明日は元気になる!!と、心で誓いました。
空の無いリマから空のあるクスコまでは、約1時間のフライトでした。
海岸地帯から一挙にアンデス山脈の上まで標高を上げます。飛行機の中までは元気でした。シェラトンで朝食もしっかり食べてきました。あぁ〜〜。
クスコに着いたとたん、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を感じました。必死でメマイから立ち直ってみますが、肺胞に酸素が届きません。
「ゆっくり口から息を出し・・」
「声は出さない」
「ゆっくり、そっと歩く」
ガイドさんが、コカの生葉を手渡してくれました。
「これを噛んで」と。
ペルー国外持ち出し禁止の「麻薬の素」は、ローレルの葉によく似ていました。帰国の途につくまでの間、一番若い私が、このコカの葉と、「マテ・デ・コカ」というコカのティーパックと、酸素ボンベに、ずっとお世話になるとは思ってもみませんでした。
肉体を鍛えたこともない私は、筋肉の一筋さえもヤワで、内臓までもがヤワでした。
ペルー国内のサッカーリーグで、クスコのチームが決勝戦に残ったというニュースが流れました。決勝戦の地も、クスコになったそうで、ここクスコの人々は誰もがニコヤカに「クスコチームが優勝だ!」と笑っていました。下界から来た選手は、ここでは走れないからだそうです。「私だけ、落ち込むことも無いか・・」と呟いてみました。
世界遺産になっているクスコの街は、山の中の盆地に、石積みとオレンジ色の瓦でつくられた建物で、ギッシリと埋め尽くされたようなレンガ色の街でした。
インカやプレインカの人々が、営々と築きあげたその石積みは、未だにカミソリの歯も通さない精密さを保っていました。日本の城の石垣は、なんとオオラカだったのだろうと思いました。
とある民家にお邪魔させていただきました。
たぶん12〜16畳程の広さに見えました。ワンルームで土間です。壁面の高いところに棚をめぐらせてありました。そして、人間のドクロが祭られていました。聞くと、「あれは父親、これは・・・」位牌のかわりなのでしょうか。不思議に怖くはありませんでした。命の継承という営みを見たような、そんな気がしました。
クスコは標高約3,300m。滞在した町は、高地順応の為に2,800mのユカイです。
「ユカイまで高度を下げれば・・・」
それでも、私の体には空気は少しも優しくなく、ホテルに着くと同時に酸素吸入とマテ・デ・コカ。コカの葉で、命を養っていました。翌日もコカ。ディナーにはどうにか起きて、ギターとフォルクローレの音に誘われて、行ってみました。アルパカのステーキは食べられませんでしたが、リャマの乳で作ったアイスクリームは、久方ぶりに私の喉を通ってくれました。
透明で哀切な音色を響かせる奏者は、大柄とはいえない私でさえ大きく感じてしまう程、皆小柄でした。例えば、ポルトガルで聴いたファドは、哀切な歌ではあったけれど異邦人の音楽でした。私も同じモンゴリアンだからでしょうか、日本の尺八や横笛やヒチリキに似た葦の笛たちの調べは、素直に胸に溶け込んできました。この地で聴くフォルクローレは、私達の遠い先祖から、DNAの中にしっかりと受け継がれている何かが、胸の琴線を震わせるのでしょうか。技巧を超えたところにある、大らかさと、哀しさと、祈りに満ちている気がしました。
ユカイで愉快でない体をかかえ、4,000mの所にあるチチカカ湖へはとても行けず、「気分転換に・・・」というガイドさんの案内で、家族でピサックの市場へ行きました。
元々はインディオの物々交換の場だったそうです。小屋掛けの小さな店が軒を連ね、半分以上はお土産物屋さんでした。
ある店先で人だかりがしていたので覗いてみました。ビックリ。タライの中に、毛皮を剥かれた犬だか、ベビィー・リャマだかが入っていました。血は、別の洗面器のようなものに入れてありました。おそらく、無駄にするものは何一つ無いのでしょう。解体が始まったので、あわてて飛び退きました。マグロの解体ショーは、好きではないにしろ、生首をまな板の上にドーンと置いても耐えられるのに・・・。
ベビィー・アルパカで編んだ素敵なカーディガンがありました。胸の前に肩から斜めにかけた幅広の帯で赤ちゃんをかかえた、年齢は定かでない母親が出てきました。民族衣装から出ている素足は、むくんで(ひび・あかぎれ・しもやけ?)状態でした。日本人としては驚くほど安い値段であったにもかかわらず、日本人が値段の交渉を楽しみだしてしまいました。電卓ではなく、カサカサに乾いた腕の皮膚に、小枝の先でウノ・ドス・トリ・・と書きます。指にツバを付けてこすると消えます。そして新たにウノ・・・。「お願い、やめて」と心の中で叫びました。その母親だって、商売をしているのです。それは十分わかっていても・・。赤ちゃんが、子猫のようなか細い声をたて、そこだけは驚くほど豊満な乳房をだし、含ませました。日本人は「よい買い物が出来た」と喜んでいました。
こちらでは犬をよく飼っているのを見かけますが、クスコにしろユカイにしろどの街でも、犬はほとんど駆け回ってはいませんでした。地面にぺったりと腹ばいになり、寝ているような起きているような、不確かな感じなのです。ワンと吠えるのも聞きませんでした。これも、この高地で生きてゆく知恵なのかと思いました。
最後のイベント、マチュピチです。
電車で行きました。その名はオリエント急行。「何故ペルーでオリ・・・?」とガイドさんに尋ねると「運営しているのが、あのオリエントなんです」とのこと。利益はほんの僅かしかペルーに落ちない仕組みです。
私達が乗った一等車では、飲み物がサービスされ、朝食後だというのに、パンとおかずとフルーツの三つのランチボックスが配られ、スペイン系のホストとホステスがファッションショーをやり、顔を真っ白に塗った道化がパフォーマンスを見せ、4時間程の列車の旅を盛り上げていました。
アメリカ人達は例のあのバカ笑いで、ドイツ人の団体にもけっこう受けていました。途中駅で停車をすると、大勢の子供達が我先に、列車にむらがってきます。ランチボックスを窓から投げ、持っている食品をすべて投げました。我先に拾う子供達。私は「ギブ・ミー」との叫び声に胸を衝かれ、大はしゃぎで食料を窓の外に放り投げている人々に、吐き気を覚え、怒りとも哀しみともつかない妙に醒めた感覚におそわれ、電車にも、またまた酔っていました。
世界遺産の憧れのマチュピチへは、電車の終点から路線バスで行きました。
細い急勾配の山道をたどり、意識がストンと落ちそうになるのを、コカの葉を噛みしめながら、ようやく、はるばると、ようやく、辿り着きました。
ここマチュピチは、緑の山々に囲まれた、その山々も、「日本昔話」の挿絵にあるような急角度をもった円い山々で、遺跡は例のキッチリした石組みで、当たり前のことですが、写真で見たそのままの姿で在りました。屋根を葺きさえしたなら、そのまま使えそうな姿で在りました。
急な斜面に石積みによって段々畑を作り、水路を備え、祈りの地であったとも言われ、地球上にいくつか有る“気”の集中する場所ともいわれ、確かな存在理由は、過ぎ去ってしまった時間の霞に覆われ、今では知る術はありませんが、この山中にまさに「忽然と在る」との不思議に、はるばると訪ねた意味さえ忘れ、ただただ言葉も無いままに、祈りを捧げていました。
スペイン人達略奪者から、身を韜晦させた、先住民の知恵・・・。稜線より少し下に、遥か昔のインカ道が、細く延々と続いていました。
ヤワな肉体しか持ち合わせていない私は、もはや、遺跡の中を歩き回る体力は残されてはおらず、一人、狭い巾2mほどの段々畑に腰を下ろし、マチュピチを俯瞰していました。
しとやかな囁き声が聞こえてきそうです。今の私の暮らしに重ねあわせ、地に足を付けるという意味さえ知らず、何も失わずに、生きとし生けるもの達の命を消費している私の命。この償いをするとしたら、何に対して、何を為すことなのか・・・。サンサンと照りつける陽光のなかで、静寂というより、静謐な空気に包まれ、他のどこででも味わったことのない、マチュピチに宿る何者かに、胸を締めつけられていました。
大空に酔い、地球の起伏に酔い、モンゴリアンとしてのアイデンティティーを呼び戻されたような旅でした。これ程の過酷な旅は、後にも先にもありませんでした。
旅の記念にケーナではありませんが葦笛を買いました。空気を含んでいるような掠れた優しい音がします。
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