
思いつき記 思いつき記 その2 思いつき記 その3 新思いつき記
尊敬する某先生のHPにならって作りました。某先生には無断ですので、内緒にしておいてください。
生きている 生かされている 生きていく
朝目覚めたとき、「ああ、今日も生きている」と感激を持って一日を迎える人がどれだけいるでしょうか?余命いくばくかを宣告された人や災害等で死ぬような目にあった人なら生きていることのありがたさが実感されるはずです。
「生きている」…でも、私たちは一人では生きていけません。私たちは太陽と地球によって生かされています。そして、また、太陽と地球が育んだ生命によっても生かされています。
「生かされている」と自覚するからこそ、感謝の心を持って人生を精一杯「生きていく」ことができるのです。
体験し 体得し 体現する
武道では、なぜ練習といわず、稽古というのか? 練習場とか稽古場ではなく、なぜ道場なのか? 道場にはなぜ神棚が祭られているのか? 稽古前になぜ黙想するのか?
これらのことを考えるとき、武道の修練は精神(こころ)の練磨に他ならないことに気づかされる。
ならば、「体験し、体得し、体現」しなければならないのは「武」の精神である。
武は愛なり
「武」という字は「戈」と「止」からなっている。「戈」は古代中国で使われた武器であり、「止」は足を示す象形文字である。すなわち、「武」という字は武器を携えて進んでいく姿を現している。そして、それは「正義の実現のため」と説明されている。
しかし、Aにとっての正義は、Bにとっては正義でないということが多くある。正義の実現の名のもとに悲惨な争いが多くなされているのは周知の事実である。
大先生は「武」とはそのようなものではないと考えられた。「武は愛」の働きであり、「戈」を「止める」のが「武」であると説かれた。
歩く姿が合気道
よく言われる言葉であるが、行住坐臥全てが合気道とならなければならない。ある高名な禅師が開祖の立ち姿を見て「このような立派な立ちかたをされる方は合気道の植芝先生においてほかにないと思い、声をかけたところ果たしてそうであった。」と書き記しているのは有名な話である。
礼に始まり礼に終わる
合気道は至誠の人を作ることを目的としている。
武道に他人を敬う礼がなければ、ただの「殺しの技術」にすぎない。武道の研鑽が思いやりや優しさを持つ礼儀正しい立派な人間を育て上げることにつながらなければならない。
初めて見た演武
昭和38年秋の夜、難波にあった大阪球場で武道の演武大会が催された。色々な演武があったと思うが、今でも二つの演武だけは覚えている。しかも、未だに鮮やかに覚えている。
一つは空手の演武で、球場の照明がすべて消され、暗闇の中に両手に松明を持った集団が現れた。突き蹴りの演武に合わせて暗闇の中でたいまつの炎が群舞する様は、非常に幻想的で、力強い演武とあいまって観客を酔わせるに十分なものであった。
空手の演武が終わり、照明がつくと外野の芝生では袴をはいた集団が投げたり投げられたりを繰り返している。そしてマウンド上に設けられた舞台では受けをまるでボールでも扱うかのように、右に左に投げ飛ばし、最後には大きく遠くへ放り投げた。
観客の度肝を抜くような派手な演武であった。ところが、不思議なことにあれだけ投げ続けているのに、相手を痛めつけているとか、いじめているとかいった感じはなかった。まるで、相手と一体となって遊んでいるかのようであった。
取りをされていたのは、わが師、田中万川師範、永遠に追い付けない目標である。